インターネット

 情報があふれかえっているというのは、なんとも不思議なものだとぼんやり考えたりしています。比喩表現であるのは、もちろん承知の上です。インターネットは輪郭がおおよそとらえられません。終着点らしく感じたとしたら、それは自らの知識の境目で判断をしてるか、もしくは、本当にありうる知識を吸収したのかもしれません。しかし、膨大な人間が各々の考えを開陳している今では、後者に至ることはないでしょう。そんな風に考えてしまうと、インターネット自体があふれることはないのです。宇宙論のように、多くを内包しながら、常に拡大を続けているだけなのだろうと思っています。

 

 

 見たくない情報は、正しくないもしくは怪しいと判断してしまいがちです。そういう傾向を考えると、前述のインターネットの輪郭というのは、自分の許容範囲の中ではみ出してしまった残りを示しているのでしょうか。そんなちっぽけなものでもないような気があるんですが、よく言語化できません。

 

 話は変わりますが、私がここ数年を考えるに睡眠欲が強くなったように感じます。幼かったころほどの闊達さはとうに消え失せたのでしょうか。だからこその変化なのでしょうか。

 

 

 ネットの海から拾ってきたものですが、情報が頭の中で飽和すると眠くなるということを知りました。となると、おそらく情報社会の中でうまく適応できなかった成れの果てなのかもしれませんね。

 

 

 だからと言って、ネットから離れ続けるのも一種の違和感を感じてしまいます。見たいものが積み重なり、見なきゃに変化してしまっているからかもしれません。また、自分の許容量なんて知りませんから、加減を知るというわけにもいかないのです。

 

 

 ネットの大海から抜けだせず、いつまでもおぼれ続けているのは変わりゆく社会の風物詩になってしまうのもいいかもしれません。以上

 

 

 本当は、別にこんなことじゃなくて情報の消費の話をしたかったのですがね。

 

 

 

なんとなく

 別にマッチした世代ではありませんが、それなりに私はニコニコ動画と親しみながら生きてきました。パソコンをある程度好きに使える環境があったおかげか、年端もいかない頃からです。とはいえ、黎明期から盛隆期のあれこれをすべて知り尽くしているわけでは決してありません。一時期関係を絶っていたのでむしろ、一番盛んだったころからはちょうど抜け落ちているくらいです。

 

 

 ニコ動の凋落は早くから言われていて、もはや記憶に依っていつから言われていたか判断することは私にはできません。とはいえ、話題になった断末魔のようなグラフをぶち上げている実態を見ても、今のニコ動は落ちぶれていることは明らかですし、肌感覚としても合致しているような気がします。

 

 

 だからと言って、「v字回復には!?」なんかの高説をのたまう気はさらさらありません。ただ、文化の興隆と衰退を味わえたということは幸運です。そんな中、様々な分野から脱出というのが適切かはしりませんが、活躍の場をうまく他のプラットフォームに移している人が存在することは、周知でしょう。

 

 

 ある種ニコ動というのは、何かを生み出す一方でしゃぶりつくすということで発展してきたような気がします。これが正しいのかは知りません。その場で体験したことですから、正しいも何もあったものではないのです。思うに、どれも日常の中で行われたことが拡大しただけかもしれませんが。

 

 

 その面を持っていても、それが強く見えるようなジャンルもそうではないものもあります。その中でも、そうであっても、きっと優秀な人は光さえ当たれば、勝手に評価されるのだろうと思います。

 

 

 しかしながら、絞ることで優秀さを誇っていた人たちは、大海の中で、対象を見つけるか自らが生み出さねば、元のような環境を維持できないかもしれません。

 

 

 その人たちを包含していたニコ動に触れていたので、どこであっても、なんとなく頑張ってほしいと思うわけです。が、それは見送っている自分は、時代の奔流に流されていくのだなぁと唐突に思ったりもしました。以上

 

 

 なんか、つらつら書いていたけれどもあまりうまく書けませんでし、そこはかとない違和感を感じますが直すのもめんどくさいのでそのまま公開します。